阪神淡路大震災の思い出
本家でたてたら落ちたので
親の仕事で3月末には引っ越す予定やった
家の中のいらないものは捨ててはあったので多少はスッキリしてた
地震の前の日はパッパの誕生日やったから少し夜更かししてた
ワイは当時10才やった
家族四人で人生ゲームして日付変わる頃に寝たと思う
寒くて目が覚めた
見てみるともうふを捲ってしまっていた
かけ直してまた寝よう
そう思ったときやった
窓とブラインドが音をたてて揺れ始めてその後すぐに強烈な揺れが来た
電子レンジが飛んでいったのが見えた
アパートの1階やったんやけど上の階も軋んでるのが分かった
ギイイイイってすごく嫌な音がした
両親と弟と机に身を隠して何とかしのいだ
皆で机の足を持ってても揺れが強すぎて机ごと持っていかれた
冷蔵庫が部屋を行ったり来たりしてた
マッマは叫んでたこの世の終わりやと思った
揺れが収まってから家を出ようとしたら窓も開かないしドアも開かなかった
完全に歪んでしまっていた
パッパが窓をかち割って外に出た
外はもう火の手が上がってた
排水路を挟んだ向こうの家が崩れ落ちてた
ワイはマッマに手をひかれて外へ走った
隣の棟の仲良くしてた友達のあっくんの部屋が見えた
親の姿が見えたので通り道だったのもあって声をかけた
親「こっちは火事や!学校の方へ行こう!」
あっくんマッマ「無理なの!まだ旦那も子供も中にいるの!」
あっくんマッマは夜勤から帰ってきたところやったらしい
ドアは開かないし窓は物が邪魔して通れない
つまりあっくんとあっくんパッパは閉じ込められてた
テレビ点けたら関西テレビの隣のビル上のクレーンが倒れてる映像が流れてて
露木茂が「あー倒れてますねー」とか言ってた
一方、神戸では地獄絵図…
情報入らんかったんやなあ
でもアパートの上の方は崩れてきていていつ倒壊してもおかしくなかった
あっくんパッパはあっくんマッマに逃げろと怒鳴っていたらしい
ワイらは申し訳ないが避難を急いだ
その後あっくん家がどうなったかはよく知らない
火事はあちこち起きててとにかく怖かった
火のせいで行き止まりの道もあって右往左往した
弟は途中からパッパがおぶってた
いいなって思って見てた
瓦礫の下から助けを求める声が道の左右から聞こえた
手を貸してくれって
でも火はどんどん迫ってくる
倒壊もあちこちやった
ワイが一番覚えている光景やけどありえへん高さの炎の竜巻が上がってた
火災旋風て言うんやってな
とんでもない怖さやった
火災の家の中から燃えながら出てくる人もいた
皆驚いて避けた
すぐに息絶えた
しばらく逃げて学校に着いたけど体育館はむしろ危険やった
寒いけど知り合いもいたしグラウンドで待機することにした
火事から離れたから寒かったのを覚えてる
泣いている人も多かった
マッマも泣いてた
燃えて焦げ付きた我が子を背負ってきたどこかのお母さんがいた
医者?みたいな人がいてその人に助けてください!って叫んでた
誰がどう見ても無理やった
焦げたような変な臭いのグラウンドでもう少し状況が収まるのを待った
段々ヘリコプターやら取材やらが始まった
ワイパー得意気に取材に応えてたらしい
高速道路ポキポキは衝撃的やった
そのすぐ後にオウムの地下鉄サリン事件やっけ?
もう世界が終わるような雰囲気やったね
配給は地獄やった
怒鳴り合い、喧嘩はしょっちゅうやった
酷い人は追い出された
おばちゃんA「ぜんぶ無くなってしもたぁー(泣)」
おばちゃんB「お金は働いたらまた稼げる!」
強い(確信)
神戸の婆さんに電話かけたらツーツーツーで
その背後から小さい声でかからないよ、通じない・・・とかヒソヒソ聞こえた
電話でも混戦ってあるんやな
冷たかったけどあのときのおにぎりは美味しかった
でも今もあまりおにぎりは食べない
余震は何度もあった
その度に先に逃げようとする人達がぶつかりあった
余震が収まるとその人達でまた喧嘩してた
学校の友達は大半は生きてた
でも死んだ子もいた
当時は実感沸かなかったけど対面したら涙がビックリするくらい溢れた
なんか悔しかった
当時習ってたやきうのコーチも亡くなったらしい
バント職人や!と笑ってた顔をよく覚えてる
避難所に食材有り調理器具有り
おっさん「メシまだ出来へんのか!(怒)」
グラウンドにいる間は友達と見つけた野球ボールでキャッチボールしたりしてた
もう野球は出来んやろなと思ってたから
配給泥棒なんかも出てきた
おにぎりを痕から食べようと思って置いておいたら盗られたって話があった
ワイはすぐ食べることにした
ラジオの前に皆集まって話聞いてた
ワイTVやないとつまらん派やからあまり聞かへんかった
公衆電話の前に人が並ぶけどすぐに使えなくなった
硬貨がいっぱいでもう入れられなくなったかららしい
毎日お腹は空いてた
我慢できない奴等は暴れたりたかったりしてた
ワイの自宅のテレビが吹っ飛んでた
今みたいなペラッペラのテレビちゃうぞ
ブラウン管のテレビやから重たい奴やぞ
キャッチボールもお腹が減るからやらなくなった
退屈やった
火事場泥棒の話をよく耳にした
ワイの宝物箱の綺麗な石とか大丈夫かなと心配やった
ラジオを聞かなくても段々情報は掴めてきた
何百人も死んだことや行方がわからないのだと
関西地方だけでなく広い範囲が揺れたんだと
おっさん「生き埋めや早く助けたってくれ!」
消防「人手が足りないんです!」
おっさん「どうやって助けたらええんや!」
消防「上から順にガレキを剥いでください!私らがする時も同じです!」
>>59
で思い出したけど建物が崩れて生き埋めになると本当に原始的に物をどかすしかないんや
レスキューが来ても同じことや
ワイは当時それに驚いた
ああ、本当にどうすることもできないんやなと
こんなやり方しか残ってないんやなと
子供やったワイらには当時の状況はキツくて皆よく体調を崩した
ワイも風邪ひいた
寒かったしな
兵庫民「揺れはあっという間やった」
大阪民「えらい長い揺れやった」
明日センターやけど当時の入試とかどうやったんやろ
実際にそういう光景みたら一生もんのトラウマやろな…
親も当時大阪住んでたけどワイはオカンの腹の中やったし
お年寄りがよく避難所で亡くなった
ワイとお手玉してくれたじーさんも話しかけにいったら冷たくなってた
寒いからかなあと思ってた
でも違ったよね
震災そのもので亡くなった人は勿論多いけど関連死が多いことも忘れてはいかんのや
パッパ曰く当時は白髪が物凄く増えたらしい
他の人もそうやったらしい
子供でもいた
ワイにはそれが何故なのか分からなくて白髪が出てきたトッモをからかってた
ほんとうに申し訳ない
何とか引っ越す予定やったところへ引っ越すことが出来て平穏を取り戻した
東海へ引っ越した
兵庫から来たって全校集会で自己紹介したら地震のことをよく聞かれた
めんどくさかった
先生達は気を遣って話し掛けにきてくれた
ありがたかった
その後は何てこともなく過ごしてる
今回神戸に帰ったので思い出しながらスレを立ててみた
風化してるのは平和の証かもしれん
でも焼け焦げた我が子を泣きながら抱いてた母親、潰されていく人々を思い出すと語らなきゃいかんとワイは思うんや
このまま昔のことだって切り捨てられるなんて冗談じゃない
糞ジャーナリストが乗ったヘリが低空で飛んで
「温泉街のようだ」
>>76
糞やねそれは
阪神淡路大震災を知らない世代も増えてきた
東日本大震災の方がイメージ強いしな
それは別に構わへん
でも知ってて欲しいんや
火の竜巻から逃げ惑ったことも助けたくても助けられなかった人がいたことも全部伝えておきたいんや
我が子にも何回でも伝えるつもりや
独身やから今のところ予定は無いんやけどな
今日はテレビでいくつか震災番組あったな
こういう報道を機に備えをしてほしいんや
防災グッズ、乾パンの賞味期限の確認、逃げる場所の確認と共有
震災は過去の事でも同じ地震は必ず来るぞ
必ずや
これ見た人達は災害対策をこの土日でやれることからやってみてくれ
手軽に揃うから
じゃあな
見てくれてサンガツやで
写真貼ってくれた人もサンガツ
この日常は当たり前やないからな
イッチおつやで25年前にそういう地獄みたいな光景が広がってたっていう実感が湧いたわ
東日本と熊本は実際に被害に遭ったから分かるんやけどな
イッチ乙
いろいろ思い出したわ
引用元:阪神淡路大震災の思い出
https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1579267734/